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大阪城公園 難波宮・大極殿

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〒540-0007 大阪府大阪市中央区馬場町3-65

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大化の改新の舞台ともなった都の跡地であり、大阪城を目前にした難波宮跡公園内にある『なノにわ』のある周辺は、
現在も文化、食、芸術を日本や世界へ発信する作家や職人、芸術家が集まる街でもあります。
この地域を拠点に活躍する素晴らしい「街の人」の話から、難波宮周辺の魅力を再発見してください。

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難波宮の歴史

古代日本の拠点、難波宮。
天皇が住まい、
国際交流が育まれ、
今の大阪に続く歴史の原点。

  • 発掘された古代の都、
    難波宮

    最初の本格的宮殿である前期難波宮(飛鳥時代)[大阪歴史博物館 蔵]

    大阪市の中心部を南北に延びる上町台地の最北端の地では、古墳時代(5世紀)に大規模な倉庫群(法円坂遺跡)が営まれ、国際港である難波津を擁して交易、交流の拠点として発展した。その後、飛鳥時代(7世紀)から奈良時代(8世紀)にかけて前期難波宮、後期難波宮の2時期の宮殿が造営された。宮殿の中央北側には天皇の居住する内裏、その南には大極殿院や朝堂院といった国家の重要な儀式や政務を行う中枢部が置かれた。西側と東側は役所(官衙)地区であった。前期難波宮はすべての建物が掘立柱式で、屋根は板葺きであった。「大化改新」(645年)による難波遷都の後に営まれた難波長柄豊碕宮と考えられており、わが国で最初の本格的宮殿である。後期難波宮は、奈良時代の神亀3年(726)から聖武天皇の命令で造営された宮殿である。大極殿院や朝堂院の中心建物は基壇、礎石上に建ち、屋根には重圏文軒瓦などの瓦が葺かれていた。天平16年(744)には一時期首都と定められた。

    後期難波宮の内裏とその中心となる内裏正殿

    内裏正殿の発掘調査(1963年)

    守られた難波宮跡

    難波宮跡の発掘調査は、1954年から大阪市立大学(当時)を退官した山根徳太郎博士(1889~1973)を中心として行われ、多くの学術的成果が得られた。その時期は高度経済成長期と重なり、大阪という大都市の中心にあって遺跡の保存は困難を極めた。山根博士は粘り強く保存運動を続け、市民の賛同を得て現在のような広い範囲が国の史跡に指定され、保存された。大都市の中心部でこれほど大規模に保存された考古遺跡は、わが国では他にほとんど例がない。難波宮跡は歴史的な重要性だけでなく、遺跡の保存という観点でも画期的な遺跡といえる。

    発掘調査現場に立つ山根徳太郎博士

  • 内裏
    天皇が暮らし、政務を行った空間

    1954年からの発掘調査で、中央区法円坂を中心とする一帯に飛鳥時代(7世紀)から奈良時代(8世紀)にかけて、前期難波宮、後期難波宮の2時期の宮殿が建設されたことが明らかとなった。どちらの宮殿も阪神高速道路(中央大通)より北では内裏の遺構が見つかっている。内裏は宮殿の中心部北寄りにあって、天皇の日常生活の場であり、また政務を行う場でもあった。その南には国の重要な儀式や行事などを行う公的な場である大極殿院や朝堂院が置かれた。内裏の構造は、周囲を回廊や塀で区画した格式ある空間の中に中心となる建物を配置する。その北側には天皇が日常生活を営む建物や付属施設が配置された区画があった。

  • 後期難波宮の内裏正殿

    西から後期難波宮内裏正殿を望む[大阪歴史博物館 蔵]

    後期難波宮において、内裏の中心となる建物が内裏正殿である。発掘調査により、正面は26.9m、奥行は11.9mの規模であることがわかった。大極殿院や朝堂院が基壇をもつ礎石建ちで、屋根は瓦葺という中国風の建築様式であったのに対して、天皇の住まいである内裏の建物は掘立柱式で、屋根は板葺か檜皮葺という日本古来の伝統的な建築様式であった。その中心となる内裏正殿は高床構造をもち、四周に庇があって縁と高欄をめぐらせ、屋根は入母屋形式の格式高い建築であったと考えられる。

    後期難波宮の内裏とその中心となる内裏正殿

    内裏正殿の発掘調査(1963年)

    内裏正殿 正面図(出典:季刊大林 No.31)

  • 後期難波宮の中枢部
    内裏の南側に広がる大極殿院、朝堂院

    内裏正殿から南側に広がる大極殿院、朝堂院を望む[大阪歴史博物館 蔵]

    宮殿の中央部にあって、内裏は天皇の日常生活の場であり、また政務を行う場でもあった。その中心が内裏正殿である。掘立柱式の高床構造というわが国の伝統的な建築様式であり、屋根は入母屋造りで、四周に縁と高欄をめぐらせた格式高い建物であった。内裏の南には大極殿院や朝堂院が広がっていた。ここでは国の重要な儀式や公式行事が行われ、大極殿はその際に天皇が出御する最も重要な建物である。朝堂院の中央には貴族や官僚が居並ぶ広場があり、両側にはそれぞれが着座する建物(朝堂)が配置されていた。

    朝堂院で行われた儀式の再現イメージ

    高架式を取り止めた高速道路

    1970年前後、難波宮の中心部で大阪の東西の幹線道路として中央大通と阪神高速道路の建設が計画された。発掘調査では建設予定地から前期難波宮の中心建物であり後世の大極殿に相当する内裏前殿をはじめとする多くの重要な遺構が発見されたことから、高速道路の設計を変更し、地下を破壊する高架式を取り止めて地上を通す構造とした。それにより遺構保存が可能となっただけでなく、内裏、大極殿、朝堂院という難波宮の中枢部の視覚的な一体感を保つことができ、全体景観の保存も実現することができた。

    阪神高速道路建設前の発掘調査(1977年)

  • 内裏を区画する回廊

    内裏の構造は前期難波宮、後期難波宮ともに同様で、周囲を回廊や塀で区画した格式ある空間の中に、中心となる建物を配置していた。その北側には天皇が日常生活を営む建物や付属施設が配置された区画があった。歴史公園としての整備を行うにあたり、内裏の広がりを認識しやすいように、その周囲を区画する回廊や塀などの位置を園路の舗装として示した。赤色は前期、黒灰色は後期の時期を表している。回廊は柱を3列に配した複廊とよぶ構造であり、柱の間隔は、前期は桁行(長辺)方向が約2.9mで、梁行(短辺)方向が約2.0mであった。後期は桁行方向が約3.0mで、梁行方向が約2.4mであった。少し色合いの異なる○印は柱位置を示している。目の前を南北に延びる内裏西回廊、約180m東側には内裏東回廊が位置しており、この間の空間が内裏であった。

    前期内裏西回廊と外郭の塀

    後期内裏西回廊と内裏外郭回廊[大阪歴史博物館 蔵]

  • 発掘調査が進む
    内裏中心部の北側

    内裏は、周囲を回廊や塀で区画した格式ある空間の中に中心となる建物を配置していた。その北側には天皇が日常生活を営む建物や付属施設が配置された空間があったことが発掘調査で明らかとなっている。南側は主に政務に用いられ、北側は私的な空間であったと推測されている。ここから東へ延びる、両端が塀となる内裏後殿北回廊によって両者は区画されていた。塀とは柱が1列の区画施設であり、回廊は柱が3列に並んだ複廊という構造であった。複廊の中央の柱列は壁で仕切られ、両側の柱列は吹放しで開放されており、人が往来できた。

    前期複廊及び塀の断面構造

    発掘調査風景(2023年3月/撮影:株式会社島田組)

  • 地下に保存された屋根瓦
    後期難波宮 内裏外郭回廊

    西側から見た、屋根瓦の出土状況(1961年)

    後期難波宮の内裏をめぐる回廊のさらに外側に、内裏の外郭を区画する回廊跡が見つかった。2列に柱を配するが、通有の単廊ではなく、築地を伴うやや特殊な構造であったと考えられている。この回廊の東側では、屋根に葺かれていた瓦が正位置ではなく、上下逆さまの状態でまとまって出土した。瓦はずり落ちたのではなく、屋根が裏返しになるかたちで建物が倒壊したと推測される。この瓦堆積遺構は、1961年の発掘調査当時、南北約10m分が保存処理をしたうえで出土した状態のまま地下に保存されている。2015年には再度発掘調査を行い、その状態が良好に保たれていることを確認した。

    重圏文軒瓦を用いて復元された屋根

    内裏の内側から見た、後期内裏西回廊と内裏外郭回廊[大阪歴史博物館 蔵]

    出土した瓦の保存処理のようす(1961年)

  • 内裏を囲む回廊と門

    内裏の構造は前期難波宮、後期難波宮ともに同様で、周囲を回廊や塀で区画した格式ある空間であった。その区画を示すために、園路の舗装を前期難波宮は赤色に、後期難波宮は黒灰色とした。回廊にある少し色合いの異なる○印は柱位置を示している。前期難波宮の回廊は、この位置で東に曲がり、幅が広くなっている。そこに内裏に出入りするための門があった。その門の東で回廊は再び南に曲がり、そこには宮殿の中心となる建物、内裏前殿の空間へ入るための門が開いている。目の前を南北に延びる内裏西回廊、約180m東側には内裏東回廊が位置しており、この間が前期、後期ともに内裏であった。

    曲折する前期内裏西回廊に設けられた内裏への門、及び内裏前殿への門[大阪歴史博物館 蔵]

    後期内裏西回廊と内裏外郭回廊

  • 目の前に広がる
    内裏の空間

    前期・後期難波宮の遺構配置

    史跡の整備を行うにあたり、内裏の広がりを認識しやすいように、その周囲を区画する回廊・塀などの位置を地表面に園路の舗装として示した。前期難波宮を赤色、後期難波宮を黒灰色として、少し色合いの異なる〇印は柱位置を示している。前方には前期の内裏中心部を区画する塀や回廊があり、北へさらに延びる塀は発掘調査で明らかになったもうひとつの区画の存在を示す。南側の東西方向に延びる前期回廊のうち幅が広くなっているところは内裏に出入りするための門である。足元を南北に延びるのは後期の内裏東回廊で、内裏正殿をはさんで約180m西側には西回廊が位置していた。この間が後期の内裏であった。

    前期難波宮 内裏のすがた

    後期難波宮 内裏のすがた[大阪歴史博物館 蔵]

    内裏における発掘調査(2023年3月/撮影:株式会社島田組)

  • 発掘された古代の都、
    難波宮

    1954年からの発掘調査で、中央区法円坂を中心とする一帯に飛鳥時代(7世紀)から奈良時代(8世紀)にかけて、前期難波宮、後期難波宮の2時期の宮殿の存在が明らかとなった。前期難波宮は「大化改新」(645年)による難波遷都の後に営まれた難波長柄豊碕宮と考えられている。藤原宮や平城宮に先立つ、わが国で最初の本格的宮殿である。後期難波宮は、神亀3年(726)から聖武天皇の命令で造営された宮殿である。どちらの宮殿も阪神高速道路(中央大通)より北では内裏の遺構が見つかっている。内裏は宮殿の中心部北寄りにあって、天皇の日常生活の場であり、また政務を行う場でもあった。周囲を回廊や塀で区画した格式ある空間の中に中心となる建物が配置されていた。

    前期難波宮(飛鳥時代) 内裏のすがた[大阪歴史博物館 蔵]

    後期難波宮(奈良時代) 宮殿中心部のすがた

  • 前期難波宮の中枢部を荘厳化する
    内裏南門と東・西八角殿

    飛鳥時代(7世紀)の前期難波宮では、天皇の日常生活や政務の場である内裏と儀式や政務を行う朝堂院が連続した空間となっており、内裏の中心建物である内裏前殿が朝堂院の正殿でもあった。前期難波宮の建物はわが国の宮殿建築の伝統様式で建てられ、掘立柱式で屋根は板葺きであった。
    内裏の正面を立派に見せるために内裏南門の東西に八角形の楼閣建築を配置するという建築計画はそれまでのわが国には例がなく、中国の宮殿造営手法の影響がうかがえる。前期難波宮は難波長柄豊碕宮と考えられており、『日本書紀』にはこの宮殿を「言葉で言い表せないほど立派である」と記している。

    南西から望む前期難波宮の中枢部[大阪歴史博物館 蔵]

  • 発掘された
    前期難波宮の内裏南門

    内裏南門の発掘調査(赤色が内裏南門、青色が後期大極殿後殿、1969年)

    前期難波宮において最も重要な区画は内裏で、その内裏の正門が内裏南門である。正面(桁行)7柱間(約32.7m)、奥行(梁間)2柱間(約12.3m)で、古代の宮殿に建設された門としては藤原宮の大極殿院南門と並んで最大規模である。東西に配置された八角形の楼閣建築とあわせて、内裏の正面を飾り、立派に見えるよう計画されたものである。内裏南門の南には広大な規模をもつ朝堂院の空間が広がっていた。
    この内裏南門と重なる位置に、後期難波宮の時代には大極殿後殿が建てられた。発掘調査では、掘立柱形式である内裏南門の柱穴と同じ面で、大極殿後殿の基壇に使われた凝灰岩を取り外した痕跡が検出された。

    内裏南門発掘調査地遠景(1969年)

    南から見た内裏南門[大阪歴史博物館 蔵]

    内裏南門の柱穴(1969年)

  • 後期難波宮
    大極殿院と朝堂院

    奈良時代(8世紀)の後期難波宮において中心となる区画は、内裏及び大極殿院と朝堂院である。大極殿院は内裏の南方、朝堂院の北側に位置して、大極殿の周囲を回廊で囲んだ天皇の独占空間であった。その規模は東西約107m、南北約81mである。北回廊の中央には大極殿後殿があり、軒廊で大極殿とつながっていた。大極殿は朝堂院の正殿であり、国家の公式行事や儀式、外国使節との謁見などの際は、大極殿に天皇が出御し、朝堂院の中央の広場には貴族や官僚が整列した。奈良時代の宮殿では、中心部の建物はより立派に見えるように高い基壇上に礎石を用いて建てられ、屋根は瓦葺きとする中国式の建築様式であった。

    南西から望む後期難波宮の大極殿院[大阪歴史博物館 蔵]

  • 大極殿院の建物配置

    大極殿後殿の発掘調査(青色が大極殿後殿、赤色が前期内裏南門、1969年)

    大極殿の後方には大極殿後殿が置かれた。天皇が大極殿に出御するときの控えの間として用いられた。両者は軒廊で結ばれ、上方からみるとカタカナの「エ」の形となっていた。大極殿の周囲は回廊で囲まれており、北回廊は大極殿後殿の東西に取り付く構造であった。朝堂院との間を画する南面回廊の中央には、南門(閤門)があった。大極殿院の内部は小石敷きによる舗装がされていて、格式の高い空間であった。
    大極殿後殿は前期難波宮の内裏南門と重なる位置に建てられており、発掘調査では、後殿の基壇に使われた凝灰岩を取り外した痕跡が、掘立柱式である前期内裏南門の柱穴と同じ面で検出された。

    大極殿後殿周辺の小石敷きと散乱する瓦(1969年)

    北東から見た大極殿後殿と大極殿[大阪歴史博物館 蔵]

    南から見た大極殿閤門と大極殿[大阪歴史博物館 蔵]

  • 発掘された古代の都、
    難波宮

    1954年からの発掘調査で、中央区法円坂を中心とする一帯に飛鳥時代(7世紀)から奈良時代(8世紀)にかけて、前期難波宮、後期難波宮の2時期の宮殿の存在が明らかとなった。前期難波宮は「大化改新」(645年)による難波遷都の後に営まれた難波長柄豊碕宮と考えられている。後期難波宮は、神亀3年(726)から聖武天皇の命令で造営された宮殿である。
    古代の宮殿の中心部にあって最も重要な区画が内裏及び大極殿院と朝堂院である。前期難波宮では、天皇の日常生活や政務の場である内裏と儀式や政務を行う朝堂院が連続した空間となっており、内裏の中心建物である内裏前殿が朝堂院の正殿でもあった。一方、後期難波宮の朝堂院は大極殿院の南側に位置した。国家の公式行事や儀式、外国使節との謁見などで大極殿に天皇が出御した際に、朝堂院では中央の広場に貴族や官僚が整列した。

  • 目の前に広がる朝堂院の空間

    大極殿院・朝堂院地区 整備構想図

    朝堂院は前期難波宮、後期難波宮ともにほぼ同じ場所につくられ、中央には貴族や官僚が整列する広場があった。広場の両側には朝堂と呼ばれる複数の建物が計画的に配置されていた。前期の建物はわが国の伝統的な宮殿建築様式で建てられ、掘立柱式で屋根は板葺きであった。一方、後期の建物はより立派に見えるよう高い基壇の上に建てられ、屋根は瓦葺という中国式の建築様式であった。周囲には回廊や築地塀が巡っていた。
    朝堂院の規模や広がりを認識しやすいよう、建物や回廊、築地塀の位置を地表面に示した。両者を区別しやすいよう、前期は低い位置に赤色の舗装で示した。後期は基壇をイメージしやすいよう高くしている。

    南から見た前期難波宮朝堂院[大阪歴史博物館 蔵]

    南から見た後期難波宮朝堂院[大阪歴史博物館 蔵]

    朝堂院で行われた儀式の再現イメージ[大阪歴史博物館 蔵]

    前期難波宮の朝堂院東第一堂の発掘調査(1991年)

  • 後期難波宮の西方官衙
    五間門をもつ区画

    後期難波宮の朝堂院の西側に、南北約200mの大規模な区画がつくられた。特筆されることは、これを3等分する位置に五間門2棟が配置されていることである。五間門とは正面に柱が6本立ち、柱間が5柱間ある門をいう。門の建築様式としては最上級の構造である。
    この門は宮殿の中心から西に158mの位置にあるが、これは朝堂院西端までの長さの2倍であり、計画性が認められる。この区画の西端は見つかっていないが、東西幅は120m以上あることがわかっている。この区画の内部ではこれまであまり建物見つかっておらず、どのような目的をもっていたかよくわかっていないが、格式の高い五間門が2箇所に配置されていたことから、重要な区画であったことは確実である。

    南五間門の発掘調査(1985~86年)

    五間門区画の柱穴と瓦の出土状況(1976~77年)

    蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦

    後期難波宮の五間門をもつ区画の北端、南北方向の掘立柱塀が西へ曲がる付近の柱穴からは、蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦の組合せのみが出土している。吹田市の七尾瓦窯で焼かれ、ここまで運ばれたことがわかっている。後期難波宮では比較的早い段階でつくられ、後に凝灰岩を用いた溝などにつくり替えられている五間門の区画で、重圏文軒瓦ではなく蓮華文・唐草文の軒瓦が用いられていたことは注目される。

    蓮華文軒丸瓦と唐草文軒丸瓦

  • 朝堂院を区画する
    回廊や築地塀

    古代の宮殿において、朝堂院は国家的な行事や儀式、外国使節の謁見などの場であり、貴族や官僚が政務を行った。前期難波宮、後期難波宮ともに中央は広場で、その両側に貴族や官僚が着座する朝堂と呼ぶ複数の建物が計画的に配置されていた。前期は周囲に柱が3列に並ぶ複廊という格式の高い構造の回廊が巡り、後期は南面及び北面が複廊で、東面及び西面は築地塀で区画されていた。
    朝堂院の規模や広がりを認識しやすいよう、朝堂の建物や回廊、築地塀の位置を地表面に示した。両者を区別しやすいよう、前期は低い位置に赤色の舗装で示した。後期は基壇をイメージしやすいよう高くしている。

    前期難波宮の朝堂院西面回廊と朝堂の発掘調査(1965年)

    前期難波宮朝堂院の西回廊と朝堂[大阪歴史博物館 蔵]

    後期難波宮朝堂院の西築地塀と朝堂[大阪歴史博物館 蔵]

  • 前期難波宮
    西八角殿

    南西から見た前期難波宮西八角殿院[大阪歴史博物館 蔵]

    前期難波宮において最も重要な区画である内裏の正面を飾り、より立派に見えるようにするために、正門である内裏南門の東・西両側に八角形の楼閣建築を配置していた。この建物の内部の柱は、柱穴の1辺を斜めに掘り広げるという特殊な方法が採られていることから、この柱は長大なものであり、2階建ての楼閣建築であると考えられた。平面の規模は、八角形の対辺間の距離が約17.5mあり、わが国では最大の八角形建物である。周囲は柱が3列に並ぶ複廊という格式の高い構造の回廊で囲まれていた。
    内裏南門をはさんで東側の対称の位置に、同規模、同形式の東八角殿がつくられていたことが発掘調査で確認されている。

    西八角殿の発掘調査(1983年)

    東八角殿の発掘調査(1988年)

    八角殿の柱の立て方を再現[大阪歴史博物館 蔵]

  • 後期難波宮
    大極殿

    大極殿の発掘調査(1970~71年)

    後期難波宮のなかで最も重要な建物が大極殿である。国家の重要な儀式や行事、外国使節の謁見などの際に天皇は大極殿に出御し、南側の朝堂院の中央にある広場に貴族や官僚が整列した。大極殿の中央には天皇が着座する高御座が置かれていた。
    発掘調査により基壇の平面的な大きさがわかり、当時の凝灰岩切石が出土したため、それらをもとに基壇の大きさ、形を推定し、現地に復元している。大極殿の規模は正面(桁行)が9柱間約35.2m、奥行(梁行)が4柱間約14.6mと推定できる。基壇の高さは、発掘調査でわかった階段の出の寸法から、2m以上あったことが推測される。屋根は瓦葺で、重圏文と呼ばれる軒瓦が使用されていた。

    コンピュータグラフィックスによる大極殿の復元イメージ[大阪歴史博物館 蔵]

    大極殿内部空間の復元[大阪歴史博物館 蔵]

    重圏文軒瓦

    後期難波宮の大極殿院や朝堂院の屋根に葺いた軒丸瓦・軒平瓦のほとんどには同心円や弧線・郭線による重圏文と呼ばれる文様が採用されている。古代の宮殿や寺院で見られる軒瓦の文様の多くが蓮華文、唐草文であるのに比較して、この宮殿を特徴づける瓦である。

    後期難波宮を特徴づける重圏文軒瓦